才能とは生まれもったもののように思われる。
しかし、最近AIの機械学習などを見聞きしている中で、才能とは努力なのではないかと思うようになった。
AIで言うネコとイヌの違うを認識する力は、大量のネコとイヌの画像を見せることで違いを自ら学習することで身につく。
私たちもイヌとネコは幼少の頃からよく目にするので違いを認識できる。
私たちなら日本人と中国人、韓国人の区別もつくだろう。だが、アラブ系の顔の違いはなかなか区別がつかない。普段目にしないからだ。一方でアラブ系の方々であればその逆の現象が起こるだろう。そもそもアラブ系と括っているがペルシャは違う、とか(実際のところは知らないが)。
音楽というものも、好みの違いはあれど、作曲技法やコード進行、演奏の難しい楽器や、その時代の電子楽器技術の背景などを知ってるか知らないかで、語れるものはある。
写真も、好みの違いはあれど、絵としての構図、色合い、遠近法などのポイントを知っているのと知らないのでは撮る絵は変わってくる。
それは好きで大量のデータに触れていたかどうか。生まれもった能力ではなく他人が知らないところで(もしかすると本人も知らないうちに)どれだけ積み重ねたかであろう。
プログラミングのセンス、で考えればわかりやすい。いまの40代は確実に後天的である。そんなDNAなどありもしない。学生以降に興味を持って時間を投じた結果だろう。
同じ努力をできるかどうかは別として、他人の優秀さを才能と片付けず、努力を讃えるようにしたい。
スポンサーサイト
年も明けたし、珍しくゲームの切り口で。
攻略本はキャラクターパラメータや全マップや呪文・道具一覧だけでなく、キャラクターデザイン集など攻略には不要な情報まで詰まってる。
攻略本買ったらゲームをクリアする楽しみがなくなると昔は思っていたが、そうではなかった。俯瞰してどんな設定たったのか、製作者がどういうことを考えて作っていたか、発見できなかったゲームの隅々までを味わい尽くすために必要なものだ。
大人になって思うのは、そこまでやるやつほど仕事を徹底的にできる。オタクの方が良いのだ。70%で諦めるより、100%やりきる人間でありたい。
トレーニングとは何か。
日本語では、訓練・練習と訳すことができるようです。

訓練を辞書で引くと、次のとおり書いてあります。
「 あることを教え、継続的に練習させ、体得させること。」「 能力・技能を体得させるための組織的な教育活動のこと。」

同じく、練習は次のとおりです。
「技能・学問などが上達するように繰り返して習うこと。」(すべてgoo辞書より)

訓練と練習の違いとしては、訓練が「誰かの教え」と「組織的活動」があるのに比べて、練習は「自発的な活動」として捉えることができそうです。
いずれにしても、何かを体得するために繰り返して行う活動のことを示しております。

その点では今回テーマにした「トレーニング」は、「練習」の方に近いニュアンスで使用しています。


さて、資格試験や、車の運転、面接の話し方、ボールの打ち方など、私たちはさまざまなことについて、トレーニングを通じて身につけていきます。
トレーニングというと、意識的に、計画的に実行することが多いでしょうが、上述した中でもたとえば「面接の話し方」などはトレーニング以外の影響が色濃く出てしまうでしょう。
したがって、面接の話し方を上達させるには、普段の話し方から気をつけなくてはならないわけです。

これが今回のテーマである「怠惰のトレーニング」へとつながります。

つまり、資格試験の勉強をする、面接の話し方の練習をする、以外の時間の使い方は何をしているかということです。
わかりやすく言えば、ダイエットをしようとして食事の量や質を工夫している一方で、運動はせずに不規則な生活を送っているとしたら、それはダイエットのトレーニングをすると同時に不健康のトレーニングもしている状態にあるわけです。

このマイナス面でのトレーニングは日常に多く潜んでいます。
・今日は早起きしようと思ったけど寒いからいいや
・テレビを見るつもりじゃなかったけど、なんとなく1時間も見てしまった
・掃除をしようと思ったけど気分が乗らないから今度でいいや
・年内にTOEIC受けるつもりだったけど、受験日とか調べてなかった
こういった鈍い行動、判断の先送りなどを何度も繰り返すということは、そういった怠惰な生活を再び送ることができるようにトレーニングしているのと同じです。日常を何もしていないというのはプラスマイナスゼロではなく、想像以上にマイナスに進んでいるわけです。

2016年、こういったマイナスをプラスに転じられるよう努力していきたいと思います。